なんと-e   このサイトに関して
2006年より2015年まで運用しておりました「なんと-e.com」のブログをアーカイブとして公開しております。
掲載内容はブログ投稿時の内容によりますので情報によって被った損害、損失に対して一切の責任を負いません。
公開期限は2020年を予定しておりまが、予告なしに変更又は削除する場合がありますのであらかじめご了承ください。





インドアジャンタ・エローラ石窟群とナント

2013/11/20
夏物のズボン、ジャケットを引っ張り出してインドへ行ってきた。
初インド。ネパールには10回以上訪問していたのでインド ムンバイの雑踏には驚く事も無かったが。
台頭が著しい新興経済発展のBRICs ( ブラジル(Brazil)、ロシア(Russia)、インド(India)、中国(China)、南アフリカ共和国(South Africa)5ヶ国。)インドの高級住宅とスラム街の混在とカースト制の国とはいえ人々の貧富の差が日常の暮らしに見える国。
第一印象は「不思議な国」。
今回北日本新聞社さんのお世話になり富山インド協会の訪問団として参加した。
富山県の経済界の皆さん。富山市長、中川県議さんらと共に総勢12名の訪問団。

詳しくはどこかで紹介するが。今日は我々が行って来たアジャンタ石窟とエローラ石窟とナントの不思議な縁について紹介する。

先ずはインドを訪れる前に読んでいた奥野福光美術館長のブログを紹介しよう。

ブログの抜粋
 福光美術館の館長室に、
 一枚の額が懸けられている。
 日本を代表する仏画家、荒井寛方の描いた
 雲龍の図である。

 土生新の実家の座敷に
 物心ついたころから飾ってあった一幅である。
 これを見て育ち、こんにちに至る。
 いまも飽かずに眺められる幸せ。

 荒井寛方は、明治11年、栃木県の氏家町に生まれる。
 上京し、浮世絵の大家水野年方に弟子入り。
 鏑木清方は兄弟弟子。

 30歳で文展の賞を
 毎年受賞。石崎光瑤さんの若いころみたい。
 大正5〜6年、インドの詩聖タゴールに招かれ、
 2年間、インドのタゴール大学で
 絵画を教える傍ら、アジャンタ石窟を模写。
 タゴールはアジア初のノーベル文学賞を受けた。
 このとき、花鳥画家の光瑤と
 インドの写生旅行を一緒に続けた。
 帰国後に、「ぜひ、一献傾けたい」
 という手紙が残っている。

 (中略)

 南砺市(福光)山本の出身の河合家へ
 寛方の愛娘、照子がお嫁入りしていた。
 戦時中は山本の実家へ疎開、身重だった。
 (すぐ近所に棟方志功も疎開していた)

 (続く)

館長のブログ全文はこちら。。。


お解りだろうか?
南砺市福光出身の花鳥画家 石崎光瑤と共にアジャンタを訪れていた日本を代表する仏画家 荒井寛方。
そして寛方の愛娘が福光に嫁入りしていたのだ。

今回はそんな想いをこめてアジャンタとエローラの石窟群を実際見て来た。

アジャンタ、エローラはすごい。仏教の原点であり、人間の力には驚かされた。
世界遺産 アジャンタ・エローラ石窟群を皆さんにも知って頂きたくて。


ちなみに石崎 光瑶と棟方 志功は福光美術館でご覧下さい。


石崎 光瑶
いしざき こうよう
明治17年(1884)〜昭和22年(1947) 
富山県南砺市(福光町)に生まれる。本名猪四一(ししいち)。明治29年(1896)に東京で琳派の山本光一に師事,同36年京都の竹内栖鳳に入門する。大正元年(1912)第6回文展に《薫園》が初入選,以後文展・帝展に出品を続ける。同7年(1918)第12回文展で《熱国妍春》が,翌年第1回帝展で《燦雨》が特選となった。同5〜6(1916-7)年インド外遊、同11〜12(1922-3)年には欧州に外遊している。そして昭和8(1933)年にはインド再遊を果たし、その成果を活かして高野山金剛峯寺貴賓室襖絵を制作している。大正14年(1925)から昭和20年(1945)まで京都市立絵画専門学校の教員をつとめた。

















作者田中幹夫
ブログ田中幹夫のちょっと一息
INFO南砺市長。 人が好き。南砺が好き。企業・利賀村役場職員を経て南砺市議会議員。そして2008年2代目「南砺市長」当選。53歳市政・地域おこし・まちづくり・グリーンツーリズム・スキー・そば・ネパールなど様々な話題を提供します。南砺市利賀村で母、妻、長女(看護師)、長男(大3)、次女(大1)家族。


Copyright (C) nanto-e. All Rights Reserved.